生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

生活臭と人間ギャーギャー

生活というもの。生活そのものというより生活臭だとか生活というものが纏っているイメージや空気といったものについてボンヤリと考えていた。
「日曜の朝から憂鬱な僕は人生の七分の一を損している」などとのたもうた少年がかつていたのだが、彼は何が憂鬱だったのか。生活だ。これといった趣味を持てず時間を持て余し嫌味を垂れて夫婦喧嘩を始める父、決断力がなく家事もこなせず喧嘩の原因を山積みにする母、不登校から立派なニートになった妹。その家から離れることも叶わず、逃げる先やつるむ友人もいない自分。恐らくそれらが嫌だったのだと思う。今もさして状況は変わっていない、自由意志で離れることも出来るし以前より発言力を持って家庭に影響を与えることができるようになったので幾分良くなったはずだ。
今、生活というもので嫌なイメージを抱くのはそれではなく外で感じることだ。土日の夕方のスシローなどに行けばよくわかる。ねこぢるの団地家族の話(ぢるぢるご近所日記 「団地ファミリー休日の巻」)なども読むと辛くなる。ああいった人間の営みが見るに堪えない。東京が狭いから余計目に付くのかもしれない(地方はショッピングモールとパチンコでよりステレオタイプ化していくとかそういう希望のなさそうな想像はしないでおく)。
道路は混んでいる、レンタルビデオ屋にもコンビニにもギャーギャーした家族や若者が溢れる。そういうものを見ると人が嫌になる。
頭でっかちでインテリな若者はここで教育がどうこう、愚民を導くためのどうたらこうたらとすぐに考えがちなのだけれどももはやインテリでも若者でもないのでこれはただ人の多さにウンザリしているのだろうなと。人の多さとどことなく希望のないディストピアのような空間が嫌なだけなんだ。それを人の営みがどうこうと考え始めるのはよろしいとは言えない。
逆に平日の図書館も定年を迎えてやることのない老人が延々とレーザーディスクを観ていたり落語家のCDを探すはずが司書さんに落語のウンチクをたれていたり(話を聞いてくれる人がいないのだろう)するディストピアのような場所だが、人がギャーギャー騒いでいないし大体の人が知性を持っているので好きだ。夕方なら真面目に勉強する女子中高生も眺められるし。


人がギャーギャー騒いでいる場所は避けよう。土日はひっそりと過ごせる場所を見つけよう。以上。