生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

安吾巷談 01 麻薬・自殺・宗教

安吾のエッセイはよろしくない。簡単に読めて大変面白くて不道徳的だ。

精神的な救いか、肉体的な救いか。肉体的な救いなどゝいうものは、空想上のみの産物で、現世に実存するものではない。しかし、精神的な救いを過度に上位におくのも軽率の至りで、あるとすれば無為の境涯があるだけだ。

こういうことをサラッと言ってのける。恋愛論にしてもそうであった。

人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。

人生というものの価値を放り投げるようにしておきながら、それでも愛でる他ない。そういう気持ちが伝わってくるし、それを易々と言ってのける。

人間讃歌というのは得てしてそういうものなのだけれども、安吾の場合ヒロポンを皮下注射や静脈注射でやればたちまちジャンキーだけれど俺は錠剤を7日間やって3日間休みの日を設けていたから(例えば毎回ウイスキーとチャンポンにしていても)大したことなかったなどと言ってのけたり、睡眠薬は眠るために飲み始めるが皆その酩酊状態(ラリ)を愛するようになる。と言いラリハイの魅力を正確に書き綴るのである(当時のアドルムやカルモチンなどは今の比ではなかったのだろう)。そのツケやしっぺ返しについても書いてはあるのだが、意志薄弱な人間が、意志薄弱なりの耽溺を読むというのは影響がよろしくない。

何故ならこの調子である。

しかし私のように、意志によって中毒をネジふせて退治するというのは、悪どく、俗悪きわまる成金趣味のようなもので、素直に負けて死んでしまった太宰や田中は、弱く、愛すべき人間というべきかも知れない。

まるで睡眠薬中毒や精神病に抗えず、潔くそのまま死んでゆくことにも正しさがあるかのような言い様である。それは多分に残された安吾のノスタルヂアが含まれているとしても、今葛藤している人間としてこの甘い言葉は出会うべきではなかったのかもしれない。

恋愛論

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