生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

落語心中

連休中日で世間様が浮かれる中、よりによって勤労感謝の日に働きコミティアにも行けずいじけていると追い討ちをかけるかのようにさいらとが結婚したという報告が視界に飛び込み、Twitter女子高生がTwitter人妻に変わるほどの年月が経ってしまったのか、7年もTwitterを使っているとそんなことが起きてしまうのか。
あの頃のTwitterは本当に終わったのだということを象徴する歴史の瞬間を目にしてしまい、凹む。オラも嫁ごさ欲しいべさ。かじさんさいらとさんご結婚おめでとうございます。

というようなダメージを引きずりながら出勤、Twitterから距離を置き、就業中延々とWikipediaで落語家達の項目を読み続ける。落語協会分裂騒動を把握するために録音が残っている大名人と戦後の有名どころの項目を一通りざっと読んでいた。面白くて読むのが止まらない、アバウトながら江戸落語の人間関係と歴史もやっとこさ把握。そしてあまりに面白かったのでTwitterを忘れる。このまま丸々忘れてしまいたい。他人のどうこうを一つ一つ気にするのはもう十分だ。

100分 de 名著の旧約聖書の回が録画されていたので前半の2回、50分を観る。
ソロモン王の時代に拡大政策が行われ多民族多言語になる中、神殿の建設が行われて国力の低下に繋がった。その話が抽象化されて創世記のバベルの塔になっているのだと聞き納得する。創世記は完全に神話の時代の話だと思っていたが、1000年近く編集されていた本なのだから時間軸が入り乱れていてもたしかにまったくおかしくない、盲点だった。
そしてソロモン王の時代の多神教から、南北分裂後のイスラエル王国の滅亡によって一神教が本格化した結果生み出された罪の概念。神が助けないのは民が相応しくない時であり、神は絶対的に正しいという価値観、聖書はそれでも信仰を捨てなかった人間だけの話であるということ。司会の伊集院光が「(自身が過去落語家であったので)落語家は師匠が絶対であり、そうでない人たちは噺家を廃業して去ってゆくし、噺家の世界は師匠の絶対を守った人たちだけでできている」というコメントでその価値観がストンと腑に落ちる。
案外フルタイムミュージシャンでありたいという気持ちも音楽を神とした一神教のようなものなのかもしれない。

そして今日の昼読んで知った話、三遊亭圓生を信奉していた春風亭一柳(三遊亭好生)の芸風が何から何まで似ていて「圓生の影法師」と言われ、師匠の圓生からは自分の未熟だった頃を見ているようだからと徹底的に冷遇され、紆余曲折の末、圓生の死後2年して飛び降り自殺してしまったという話を思い出す。芸というのは冷酷だ。そんなこんなで今は脳の8割が落語に支配されている。