生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

日本論 著:戴季陶

 1927年に書かれた本である。孫文の秘書である戴季陶が中国語で書き、上海で出版された本の日本語訳。ヨーロッパの人間ではなく中国の人間による日本観である。

まず昭和2年の日本及び中国の状況、当時の政治家や国際政治の状況、孫文の人となりなどを一通り把握していないとすべてを吸収することができない本であり、僕にはその知識がなかったためまだ無理があった。

大まかな話としては明治維新に対する冷静な分析、その後の日中戦争日露戦争を勝ち続け有頂天になっている日本という国の状態やそこまでに至った国民性などを隣国である中国から冷静に分析し、そこまでたどり着いた実績を褒め称えつつもその後の行く末に対して警鐘を鳴らしている。

そしてその警鐘に気付くこと無く日本は過ちを犯してしまったのであり、皮肉にもその点でこの本に書かれていることは非常に的を射た分析であったという証明となっている。

細かい部分に突っ込めるほどの知識を持っていないのだが、この本で描かれている日本人は驚くほど神道というものに対して熱心で信仰心を持っており、正直なところ戦後の日本とは全く別の人々なのではないかと思うところがある。

信仰とは、必ずしも宗教に限らない。宗教は信仰の一つの表れなのである。これは今日、信仰について語るさい、ぜひ心得ておかねばならぬことである。したがって、多くの学者が信仰の心理を説明するのに、「宗教性」という用語を用いるのは、宗教の堕落期、宗教の革命期にあっては適切である。たとえば、今日のロシアはすでに共産党の天下となり、その共産党は宗教への反逆を党議としている。ところが、モスクワ帰りの連中なら誰でもいうことだが、モスクワの民衆の生活は熱烈な信仰の中で営まれており、信仰の篤さと革命の見透しは矛盾しないという。是非善悪はともかくとして、こうしてロシアのボルシェヴィキ革命は成功したのだ。中国の青年は反宗教の革命が成功をかちえたという点に目を奪われ、それが「反宗教という宗教の力」による成功であり、信仰による成功であることを見逃している。

P147-148

 

そして侵略を受けた中国の人間としての立場というものをいとも簡単に切り離して戴季陶は現実的に国力や政治というものを考える。これは読み手である我々もまた自国への感情を切り離して捉えないと非常に危ういものになりかねないと感じる。

かりに日清戦争のとき、中国がもっと強かったならば、絶対に日露戦争は起こらなかったろう。もし中国が強かったとすれば、日・中・露の戦争となるか、中・露の戦争となって、日本だけが犠牲を受けずにすんだはずだ。

P98-99

このとき西園寺は、あっさりこう述べた。「革命というものは望ましい事ではなく、どの国にとっても、革命が起こらぬに越したことはない。しかし、いったん起きた以上、革命は必ず成功すべきものである。革命が成功しない場合、政治の不安定が続くのが歴史の法則である。したがって、他国の革命を鎮圧するなど、すべきでないし、またできもしない。」

P118

かりにこの日本趣味を、徳性、品格について分析してみると、「崇高」、「偉大」、「幽雅」、「精緻」の四つの品性のうち、豊富なのは「幽雅」と「精緻」であり、欠けているのは「偉大」と「崇高」、とくに「偉大」である。

P159-160

恐らく最も重要であるのは桂太郎への評価や田中義一への批判であるのだが、この辺りに関しては自身の日本史知識が足りないため触れないでおく。

日本論 (1972年)
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