死ぬ気でやれだとか更に上を目指してガツガツしろだとかいうことを言われることがあるのだが、ある意味既に死ぬ気でやっているのだと思うところがある。
自身の限界ギリギリまで全てを出し切って更に限界を超えようというような積極的な気持ちではない。
むしろ今目の前にあることだけで手いっぱい、ダメで元々で生きてきてこの状況、手詰まりになったらその時は野垂れるなり首をくくって死ぬだけだというような消極的な死ぬ気である。
元から社会に適合できているわけでもない、這い上がろうという気もない、はぐれ者として来てしまっただけなのだからそこからどうこうするわけがない。何かを求められても困る。
アヘンを吸うと欲望の器が小さくなるのだと高野秀行が言っていたが、アヘンなぞ吸う前から欲望の器は小さくなっているのだ。決してアヘンのようにその小さな器が満たされているわけではないのだが。
しかし妥協的に現状を受け入れ、甘んじていった末、最終的に死んでも仕方ないという諦観があるのだ。仕方がないのだ。
社会が成熟する前はそういった人間は本当に野垂れ死んでいたのだろう。現代でもホームレスは医療行為を受けることなくどこかでひっそりと死んでゆく。転んでいった先には自分もそうなるのだろうなという想像があるのだ。ニーチェならディオニソス的と言うかもしれない。もっともニーチェなんぞ読んだことがないのだが。アポロンなぞいた試しがない。
いくらか自分は参っているのだな。