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生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

人生において二冊目の遠藤周作、『沈黙』

名作には名作たる所以があるものだ。マーティン・スコセッシが映画化するというので今まで数年間積読してきた遠藤周作の『沈黙』を読んだ。ちなみにスティーブン・セガールは出てこない。

島原の乱が鎮圧された後、1640年代の五島列島が舞台となっている。最近は戦国時代の歴史小説ばかり読んでいたので、島原の乱の後では戦乱要素が一切なく地味で面白くないではないかと思いながら読んでいた。はじめのうちは。

ポルトガル人でイエズス会の司祭、ロドリゴがこの小説の主人公である。師フェレイラが極東の地で棄教したとの知らせを聞き我が耳を疑い、マカオを経由してジャンク船で長崎へ乗り込むところから物語は始まる。

佐伯彰一氏の解説や数多の書評で触れられている通り、「まえがき」は完全なる報告書として淡々と当時の有様と登場人物たちの動きが俯瞰で語られる。その後、主人公ロドリゴの書簡という体裁で物語が始まる。物語後半、章が切り替わるといつの間にか書簡ではなくロドリゴ本人の心理描写を含んだ小説にすり替わっている。ポルトガル人のキリスト教徒という日本人と程遠い存在を、このような段階をもって徐々に感情移入させてゆく遠藤周作の筆力は非常に巧みである。

ネタバレをしてしまえば、ロドリゴはキチジローという転び(棄教者)の男を軸とした切支丹たちとの触れ合い、奉行からの逃亡生活の苦しい中で日本人の信徒たちの呆気ない、家畜のような死を目の当たりにして「沈黙」を続ける神への猜疑心が生まれ始める。ヨブ記においては神はヨブに対して語るが、この作品において主は沈黙を続け、決して救いの手を差し伸べない。

キチジローというユダによってロドリゴ長崎奉行の元へ売り渡される。キチジローは申し訳なさそうに泣きながら、売り渡した司祭の元へ何度も姿を現す。イエスはユダに対し「汝のなすべきことをなせ」を言い放ったが、ロドリゴは徐々に深刻になる状況の中でキチジローに対し複雑な念を抱いてゆく。

牢の中で絶対に棄教をすまいと殉教の望みにすがるロドリゴに対し、奉行は「お前が踏み絵を踏まなければ多くの村人たちが死ぬ。お前が信仰を守ることによってお前は誰の役にも立たずいたずらにこの国の人間を巻き添えにする。だがお前が棄教さえすれば切支丹の村人たちは助かり、お前は他者の役に立てる。」という旨を伝える。献身とは何か。極限状態の心身において、ロドリゴは頑なな信仰を貫き多くの人間を巻き添えにすることが、一切人の役に立たない信仰にどれほどの価値があるのか頭を抱える。このシーンにおける鼾の演出は見事と言う他無い。

上陸後幾度も考えてきたイエス・キリストの姿を、踏み絵に描かれたすり減ってくたびれたイエス・キリストの表情が、ついにロドリゴの心へ直接語りかける。切支丹たちを救うためにロドリゴは踏み絵を踏む。その足は貫かれるように痛む。我を貫き通し殉教した「強い者」ではなく、キチジローのような「弱い者」へロドリゴは転落する。

この書のタイトルである「沈黙」とは、救いの手を決して差し伸べることのない神の「沈黙」であると同時に、棄教によってヴァチカンから名前を抹消されたフェレイラやロドリゴ、そしてキチジローのような「弱い者」たちの、キリスト教に対して語る口と権利を失ったことによる「沈黙」でもある。

以前遠藤周作の『宿敵』を読んだが、そこでは「強い者」で仏教徒である加藤清正と「弱い者」であり切支丹である小西行長が対照的に描かれていた。高山右近のように大名としての身分を捨てて切支丹を貫き通した「強い者」とも対比される小西行長は、泣き虫の切支丹であった。このような弱き者、本来キリスト教が手を差し伸べるべきであると教える弱き者たちの葛藤と信仰を遠藤周作は描こうとし続けたのだろうか。

沈黙 (新潮文庫)
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