生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

サイバーパンクSFとしての濹東綺譚、あるいは幻想としての古き良き日本

現代人が想像する古き良き日本とは、高度経済成長期かあるいは漠然とした戦前のイメージであろう。

戦前とは言うが、こと東京においては大正十二年(1923年)に関東大震災が起きており、それ以前の明治大正と昭和初期では全くと言っていいほど違う。

永井荷風の心の中にある古き良き日本とは江戸の残り香を漂わせた明治後期である。

太宰や安吾といったような世代の文豪が描くカフェーの女給などというものは忌まわしきものとして描かれており、「ラディオのひびき」から逃げるために私娼街へ赴く。現代の我々にとってノスタルジーの象徴であるラジオは荷風先生にとって最新電子機器によるノイズでしかない。そして文藝春秋に「処女誘拐」と書きたてられ、新聞に筆誅された荷風先生の恐れ方を見るとこのマスメディアという奴は最近巷で聞いた文春砲という奴と非常に似ている。

銀座は震災後に地方出身者で溢れかえって様変わりしたようだ。

飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くようになったのも、蓋し已むことを得ざる結果で、これまた其範を大阪に則ったものだという事である。

 ということで合羽橋で売っているあの食品模型もウェッサイカルチャーだというのだ。

円タクが盛んに呼び込みをし、終電が日付が変わるまで走ることによって深夜まで飲み会をする人々を嘆き「この有様を見たら、一部の道徳家は大に慨嘆するでしょうな。」と荷風の担当校正であった帚葉翁は言う。

永井荷風私小説としての節よりも、浮かび上がるノスタルジーの風景の差異、そしてそれにもかかわらず現代に対する嘆きは今とさして変わっていない点などが非常に面白く感じられる。ひょっとしたらこれは未来の我々の姿なのかもしれない。

ぼく東綺譚 (新潮文庫)
ぼく東綺譚 (新潮文庫)
posted with amazlet at 16.12.30
永井 荷風
新潮社
売り上げランキング: 126,692