生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

大衆の反逆 著:オルテガ

 読んだ。読んだのだが2ヶ月ほどかけちまちまと、寝ぼけている時、図書館から借り直した時、様々な場所で少しずつ読んでいたので一冊の本をキチンと読み終えたという意味での読書体験はしていないと言える。

 著者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは1883年に生まれたスペインの哲学者であり、『大衆の反逆』は1929年の著作である。

 ロシア革命が1917年に起き、第一次世界大戦が1918年に終わり、1926年にイタリアでファシスト党一党独裁を始め、スペインもまたミゲル・プリモ・デ・リベーラが一党独裁を目指している。そういった時代のスペイン、解説の寺田孝の言葉を借りるならば「ヨーロッパ近代の廃嫡された長子」であるスペインに生まれ育ったオルテガの本だ。

 理性(razón)を至上と掲げるヨーロッパに於いて生・理性(razón vitale)を掲げるその立場はスペインだからこそ生まれ得たのかもしれない。

 近代といったものが始まり、生活が安定し、科学、学問が複雑した結果新たなエリート層として専門家、科学者といったものが生まれた。彼らは自分の専門分野に関しては誰にも引けを取らぬほどの知識を持っているが、その知識によって思い上がり、専門外のことに対しても自分に間違いがないと過信して傲慢な態度を取る「科学者」を近代における「野蛮人」の典型例としてオルテガは語る。彼らが蔓延する近代を「《慢心した坊ちゃん》の時代」と呼び、宗教、タブー、社会的伝統、習慣のような上位の権威にすべてに対して介入し「自分の凡庸な意見を押しつけようとする」野蛮人であると手厳しく避難する。

このような話は2019年現在でもITで財を成した一部の著名人などを筆頭にいくらでもこのような《慢心した坊ちゃん》で溢れかえっていることが見て取れる。

 ソクラテスは「知らないことを自覚する」、いわゆる無知の知という哲学の出発点を生み出した。いかに、より良く生きるか、真理への探求が哲学というものの始まりであった。だがこの「知らない」「知っている」というのは何もなかった場所に0と1という極点を設置したに過ぎない。一方オルテガは「知っている」と思いこむ大衆が思想、教養を持つようになったことが進歩であるか?という問いかけにこのように答えている。

絶対、否である。平均人が持つ《思想》なるものは、本当の思想ではないし、それをもつことは教養ではない。思想とは、真理にたいする王手である。思想をもとうとする者は、そのまえに、真理を欲し、真理を要求する遊戯の規則を認める用意がなくてはならない。

 何を知っていて何を知らないか、自分が愚者と紙一重であるという自覚、そういったものを万全に持ち合わせた上で初めて本当の思想が生まれるというのである。結局の所「無知の知」を自覚した状態で己の無知を常に意識しながら歩みを進めることによって真理に近づくことができ、思想となり得る。何かを完璧に知り得ることなどあり得ず、真理に対する王手をかけることはできても真理に辿り着くことはできないとオルテガは語る。

 第二部「世界を支配する者はだれか」に関してはヨーロッパの没落、アメリカの台頭、古代ギリシャ古代ローマといった過去に学ぼうとする姿勢などが描かれているが、20世紀初頭のヨーロッパからの目線であるため現在読むといささか古くあまり読む価値があるとは思えない内容であった。いかにオルテガが先見の明を持った人であったとしてもヨーロッパが優れた文明を持っていることに対する過信のようなものが見え隠れしてしまう。

 「精神的貴族」というワードについて触れそびれたが、高潔で気高く、称賛に値する行いがいかに自身に面倒で手間がかかり困難の続く選択であってもそれを課し続ける人間こそがオルテガの言う「貴族(noble)」であり、ただ財産を引き継いで管理している人間は本来の意味の貴族ではない、だからお前らも潔くカッコよく生きていこうなというような具合であった。

 最後に、オルテガ犬儒派のことをクソミソに書いていたのが面白かったので引用しておく。

犬儒のしたことといったら、文明を故意に妨害することだけだった。かれらはヘレニズムの虚無主義者である。なに一つ生み出さなかったし、なにもつくらなかった。

 認識論を放り出し規則を無視した犬儒派のことがオルテガはさぞ気に入らなかったらしい。