生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

東京裁判に5時間殴られる

八月二十日、曇り。

映画『東京裁判』のチケットを予約、11時にユーロスペース。上映時間が4時間36分、休憩時間を挟むため終わると17時になっている。

一度に処理しきれない膨大な情報量が流し込まれる。処理オーバー。60代70代のおじさまおばさまが立ち見までし始め、上映中にいびきが聞こえ己の意識も危うくなる。

極東裁判で裁かれたA級戦犯、そもそも裁かれたA級戦犯と不起訴に終わったA級戦犯A級戦犯にすらならなかった人物(石原莞爾のような)、戦犯ではないが公職追放されていた政治家の区別もついていない知識であったので、東京裁判の実情をほぼこの映画で知ったような状態。瀧のような情報で脳がキャパオーバーになる。

しかしながらニュルンベルク裁判と異なる米英仏蘭豪比など11カ国による裁判は錯綜する。天皇を裁きたい豪ウェッブ裁判長、マッカーサーの意を受けて天皇免訴のために奇妙な立ち回りをする米キーナン検察官、国際法専門家かつアジア人の判事として裁判の不当性に不満を持つ印パル判事、原子爆弾投下は罪にならないのか?と問いかける米ブレイクニー弁護士。

責任を負って天皇を庇うために口を開かぬ者たち、真珠湾爆撃の通告を海軍から止められたと吐く外相東郷茂徳、海軍はそのような卑怯な真似はしないと怒る嶋田繁太郎、それぞれの覚悟や思惑が映像によって挙動や視線まで映し出される。紙の上に描かれる歴史上の人物ではなく生々しい一人一人の人間の姿がそこにはある。

大上段から正義を振りかざす戦勝国の欺瞞、裁く側がどのようであろうと巨大な戦争に加担したことは変わらない被告、それらは決してここで終わったわけではなく人間の宿命としてまだ続いているのだという「終」のない映画の幕引き。観終えたあとフラフラになってしまうガツンと来る映画であった。