ぞねぺ のばあ ぜぜじる
りそず ぴくも ほぶびぴ
めひき ざぱは すぜべぜ
ひぷお ぞろく よまちそ
はすき いなつ げぬとゆ ぽも
作詞をしたら言語野の調子が変になってきた
九月十二日、曇。
急に秋らしい空気に切り替わる。夏が終わった。
正直昨日、二日分動いてしまったのでロクに稼働できる気がしなかったのだがそういうわけにもいかない状況なので作詞の続きをする。
詰まって困って転がりまわってインターネットをして、インターネットを断って向き合い、なんとかかんとか捻り出す。無事やり遂げる。
これは横滑りで現れた追加タスクなので本来のタスクは終わっていないのだが、そこはそれ、気持ちの切り替えとコンディションの維持が大切だと言い聞かせながら肉を焼いて食う。
ポチポチボタンを押すだけで気分転換ができてあまり逃避しすぎないものはないかと思い、3年以上放置されていたふっかつのじゅもんを掘り出してロンダルキアへの洞窟を抜ける。なんだこの理不尽な暴力のような難易度は。いいぞ。
打ち合わせフル回転とジョアン・ジルベルトの話
九月十一日、曇り時々雷雨。
とても良い寝覚め。覚醒はとてもゆるやかで遅いものだったが起きた後は調子が良い。
急遽発生した作詞ミッション、ない頭を捻って語彙を引きずり出す。
打ち合わせ@新大久保。妄言が飛び交う。
昼間の歌舞伎町は黒塗りの車が並び、それを紺色のスーツで角刈りのいかめしい舎弟たちが警護していた。
新大久保は原宿竹下通りが失いかけている役割を担い始めている。
昼下がりの新宿ではホームレスの老人たちが所在なげに道行く人々を眺めていた。手に入れたワインのコルクが千切れてしまい、いかに中の酒を手に入れるかニヤニヤしながらアレコレ策を巡らせているオッサンを見てこちらも思わず笑顔になる。
タワレコでパソコン音楽クラブのアルバムを購入。
帰宅、作詞の続きに取り掛かっていると今年一番の夕立が降り、雷がそこかしこに落ち始める。あまりにも雷が近いのでデスクトップPCのコンセントを抜いてラップトップに作業を切り替える。
ボンヤリしてもう一つ打ち合わせがあることを失念していた。なんとか間に合って打ち合わせ二件目。新しい発注があるのは大変有り難い。ぶりかえした残暑の中チャリで奔走して人と話してなかなか疲れもしたが収穫もある一日にできた。自分に花丸をあげよう。
腹ペコで再度帰宅、カラフトシシャモでない本家ししゃもを焼いて食べる。非常に香ばしくパリパリとしており満足のゆく食事。
折角わざわざCDを買ったのでリッピングせずそのままかけて聴いてゆく。正直ブラインドテストでもしないとmp3との違いなぞわからないのだが、もはやCDを入れる行為もレコードのような特別さを感じるように。
ジョアン・ジルベルトのライブ盤『João Gilberto / Live At The 19th Montreux Jazz Festival』、「A Felicidade」が素晴らしい。細馬宏通氏は「うたのしくみ」の中でジョアンとボサノヴァについて触れており、ボサノヴァは同じ歌詞を何周も何周も歌い続けることで高揚感を生み出すという解説をしていが、まさにそのボサノヴァのリピートによって聴衆が徐々にたかぶった果てにA Felicidadeの合唱を始める。そしてその詩はこうだ。
Tristeza nao tem fim, felicidade sim.
悲しみには終わりがない、幸せには終わりがある。
会場が感極まって終わりがなくなる瞬間。その声は終わりがない悲しみに対するやりきれなさ。悲しみを一瞬忘れ去ることができる喜び。幸せが演奏とともに数分後に終わってしまうことへの寂しさ。まるでこの一行の歌詞のリピートそのものがボサノヴァのリピート構造の縮図のようになっている。ジョアン・ジルベルトの人生には終わりが来てしまったが、この録音の伝承に終わりはない。
自分と向き合うつらみ
九月八日、曇のち雨。
自分のビートとベースに向き合う。向き合うのがつらすぎる。
ハンバーザムの本を読んで息抜きしたり、肉を焼いたり、イイヤンに誘われてイーチケ氏のグループを観に行ったりする。
帰宅してお好み焼きを焼く。
台風一過の明日大詰め。