生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

重なる心の引っ掛かり

五月七日、曇りときどき雨。

昨日、長年付き添った愛猫が18年の大往生を遂げた。火葬にすると聞いたので実家に帰って最後の姿を見届ける。

家飼いの一匹目だ。拾った頃自分自身も中学生だったと考えると随分長い間生きていたものだと感じる。大変騒がしく危険な人間なので向こうも若いうちはだいぶ警戒されたが構わず遊んで嫌な思いもさせただろう。しかし猫じゃらしを振れば飛びかかる元気も向こうにあった。

いい大人になって落ち着いた頃には向こうは猫であるから高齢者になっており、派手な運動はしないがこちらに対しても警戒心を緩めて懐いてくれたのを覚えている。

猫というのは勝手なもので、二匹目は結構前に家から脱走した挙句カラスに食われてしまった。三匹目はもともと交通事故で死にかけのものを拾い、こいつも十年は生きたが心臓にガタが来て数年前に死んでしまった。猫たちは他の猫の死に無頓着だ。恐らく本能で死んだ猫に近寄らないのだろう。情はあるがそれ以上に本能なのである。

振り返って自分が猫に対して情があるかといえば、ないわけではない。死んでしまって悲しいので気持ちを整理しようと文をしたためている。しかしながら大泣きするような悲しさはない。もっと静かで、それでいて凪になるわけでもなく、何の予兆でもないのに不穏で小さな波が心の中でさざめいている。

いっそ泣けたら楽であろうという気分はここのところ十年程続いている。劇場の中で架空のキャラクターたちのドラマに対しては大泣きするようになったが、翻って現実で何かに泣くかというと葬儀にしろ何にしろそんなことは起きない。

その代わりにモヤモヤと晴れない心の引っ掛かりを抱えて生きてゆくのだろう。人生を重ねる度に心の引っ掛かりは少しずつ増えてゆく。