生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

やっとTomgggの新譜を聴けた、動物農場を読了した

一月十二日、曇り。

EXOファンが荒れる、麻生太郎が失言をする。

最近水の飲みすぎで早く目が覚める。ベッドで『動物農場』を読了。

異種族レビュアーズ観ながら飯。LINE通話会議。

妙にダルい。ベッドに戻って『水野と茶山』を読みながら過ごす。

どうも首肩周りがこわばっている。揉んでもらう。

レコードの再生環境をセットアップしてDJもできるようになったのだが、レコード針を引っ越しの際飛ばしてしまった。買い換えようと思って検索するとSHUREのフォノカートリッジは去年の五月頃に生産終了していたことを知る。買えないじゃないか。

互換性のある針は別のメーカーが生産しているのでひとまず買う。M44Gでカートリッジを揃えていきたかったのに二つ目を買う前に消えてしまった。これから二つ揃えたかったらオルトフォンのコンコルドになるのだろうか。そこまでレコードに対して深い愛着もないのだが。針について調べて時間が消えてゆく。

飯を食って、リングフィットアドベンチャーをする。今日はあまり生産的でなかったな。

 

Tomgggがネクストステージに到達した。ぼやぼやしてると置き去りにされてしまう。

 

 『1984年』を読んで『動物農場』を読んでいないのは型落ちである気がずっとしていた。幸い動物農場はおとぎ話のタッチで書かれたためページ数も少なく、文体も柔らかい。2020年最初に読んだ本は『動物農場』と相成った。

文庫に収録されている没となった序文案などを読めば、ジョージ・オーウェル本人は当時(1945年)の英国及び連合国諸国におけるソ連に対する批判への自粛に異を唱え、スターリニズムへの批判に一石を投じる意図でこの本が書かれたことが理解できる。

そのため、この本に登場する最初の豚、老メジャーはマルクスエンゲルス、またはレーニンの存在が統合された存在であり、その次に登場するスノーボールとナポレオンはトロツキースターリンが当てはまる。共産主義の理想として生まれた動物農場、それはナポレオンと配下の犬達や従順な羊たち(ボリシェヴィキにあたるのだろう)によって独裁に飲み込まれてゆく。この流れはソ連の辿った歴史であるが、それと同時に人類が何千年も繰り返してきた、そして現在やこの先の未来でも繰り返される権力の集中による独裁という人類の営みの負の側面そのもの、を描いたおとぎ話として読み取ることもできる。

訳者あとがきでも示されていたが、ウェルズは『すばらしい新世界』のオルダス・ハクスリーの後継者のように一見見えるが『ガリバー旅行記』のジョナサン・スウィフトや『海底二万哩』のジュール・ヴェルヌの末裔に近いこと、舞台を未来や架空の世界へ抽象化することによってただ時事的な批判だけではなく、別の視点、異なる角度から現実に被せて読むことができることが色褪せることのない名作たる所以であろう。

だが、ソ連が崩壊した時代の我々が知っているがソビエトスターリニズムはこの動物農場の中で描かれている世界の何倍もおぞましい現実であった。現実が小説を凌駕してしまったという点において、この小説は一昔前の作品として『1984年』に及ばないのであろう。