生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

インターネットの悪ふざけとわが子の話

四月十二日、晴れ。

星野源の曲動画とのコラボ(MAD?)にまさかの安倍晋三。音楽家を中心としてTwitterの人々の逆鱗に触れ、インターネットが大荒れの嵐になる。

動画の妙な出来の悪さ(首相官邸のストーリーズはあんなに作り込まれているのに何故?)、ライブハウスや劇場のような音楽業界に対して休業を要求しながら補償をしないとう文脈の上での音楽を体制側が利用した状況、皆不安でささくれ立った心理状態である時にわざわざ投げ込むタイミング、全てが裏目に出てインターネットは大暴れ。正直動画の不器用さから昭恵夫人が考えたのではないかと勝手に思っていた。

ここまではまだ良かった(良くない)のだが、悪ふざけのコピペツイートを町山智浩氏がキャプチャして「(世論操作の)工作が始まった」と言い放つ。キャプチャ画面に出たスクリーンネームはおねロリキメセク天皇。そんなスクリーンネームで世論操作をするわけがないというのに悪夢のように滑稽なコントが始まり、町山氏は叩いても良いオモチャにされ、おねロリキメセク天皇という名前がどんどん独り歩きをしてゆき、怒りの矛先も論点も全てが壊れた方位磁石のように回転し始める。正直私はこの悪趣味なインターネットを眺めてゲラゲラ笑っていたのだが、知人友人は依然として真剣な怒り(やや感情に囚われて我を失っている)を放っており、私はどこかバツの悪い気分になりながら、それでも悪趣味なインターネットを眺めて笑うことをやめることができなかった。

全て誰かの言葉を借りて口から吐き出しているに過ぎず、自分の頭でロクに考えていない話だ。糸井重里のようなノンポリ的で行動、姿勢を表明して政治的態度を曖昧にする星野源の今回の歌詞が体制そのものである安倍晋三に使われることによって何らかの意味が生まれてしまったという点だ。体制に利用されている?本当にそうなのだろうか。体制に利用されていると思い込み、怒り狂う人たち、今回の一見が気に食わない彼らの一方的な意見ではないだろうか。本当にそこまで気にしてファンをしているのか?その一挙手一投足で星野源のファンを止める人が出るだろうか?それはあまりにも敏感で我を見失った、声の大きい一部の人間に限った話なのではなかろうか。

無論それとこれとは別にアティテュードを持つ、表に出すか出さずに秘めるか、自身の方針を持つことは大切だ。だが今回に関してはやはり、ふんわりとした左翼的なものに乗っているミュージシャン、芸術家(芸術というのは権力から弾圧されたり傀儡にされたりすることが歴史上つきものなのは確かだ)の各々の考えが落ち着いていない、政治に大きな関心を持たないやわらかな反体制の人々の集団ヒステリーだったのではないか?という点に着地してくる。私の中ではそうなった。みんな疲れてるんだよ。自分を見直そう。自分の考えを持とう。保守/リベラル、小さな政府/大きな政府の指標を持とう。

そんなインターネットゴシップお祭り騒ぎ(楽しくてやめられないのだが、生産的ではない)の最中、妻は陣痛が始まり、子が生まれる。SARS-CoV-2で騒がしく病院も厳戒態勢であったため、今回夫である私だけが立ち会いを許される。今までの診察は尽く待合室で隔離されたり、そもそも待合室にすら入れなかったりして、ついにだ。ついに、であり最後である。幸い全てが順調に進んではいたが、人の命を生み出すことがここまでハイリスクで命懸けであることに改めて面食らう。脳の発達と二足歩行のためにここまでのツケを回してきたのかと。我々は無事子を授かることができた。ネット上では妻と子を同時に失って呆然としている男性の話が流れてきた。知人から「もっと匂わせたり教えたりしてくれよ」という意の声が届いたが、正直無事生まれるまで何が起きるかわかったものではないのでとてもそんな風にはできなかった。ただ、我々は運が良かった。子を抱いた時に駆け巡った感情を私は忘れずにいたい。タトゥーのように目に入る場所に埋め込んでおきたい。それだけは確かだ。