四月二十二日、雨。
ノーツイッターで一日を過ごすことに成功。ノーツイッターでさぞ現実が捗るであろうと思ったのだが、より正確に表現するならば現実の解像度が上がったと表現した方が近い。この解像度という言い回しがツイッターっぽいのはなんだか皮肉だが、解像度が上がったのである。棚にある本、飾られた食器、部屋の些細なことに気がつくようになった。石器時代の人類は現在の人類より文明では劣っていただろうが、炎の渦巻く様子や水面の波紋、生き物たちの動きまで細かく観察する目を持っていただろう。そういうようなことが起こった。何が本当に自分のためなのか、家族や共同体のためなのかを考えよう。
基本的には子の泣き声で起きてあやして乳をやりオムツを替えてあやして寝かしつけるというルーチンに生活が支配されたままである。
名前を筆で書いたり、沐浴の後に爪を切るコツを掴んだり。白い睫毛、奥二重、日々子は変わる。
作曲の仕事をしたりギターを弾いたりしたいのだが全然できておらん。SNSは止めたがソシャゲは止めていない。周回が捗る。読書は捗らない。
アコギの録音が必要なのだが、東京に帰らないとできない。いっそアコギを買うか?と血迷ったが父親から永久貸与(そういうことになっている)されているMartin D-18と並ぶ音がする、なおかつ役割が被らないギターとなるとそうそうない。Gibson L-00なんて高くて買えたものではない。ギターに失礼だ。色々脱線してバート・ヤンシュがYAMAHAのアコギも愛用していることを知る。ジョン・レンボーンはMartinがメインのようだ。エレキもまともに弾けんのに、アコギの指弾きができる日が来るのだろうか。デルタブルース爺になるためにも馴染んでおきたい。なるのか?デルタブルース爺に……