生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

自分の父親が「ピンを抜いて人を助けるゲーム」をやってる側の人間であることを知る

五月四日、晴れ。

ビル・ゲイツ離婚。

6時起床。朝カスタマーサポート。

祖母の葬式である。というかコロナ下なので葬式ですらない。

火葬場の前でのお別れ、火葬、納骨のみ。

スーツを着て、親戚もいない状態で30分でお別れ。

一切感慨がない。祖母が死んだのだという実感は全く無く、足に合わない革靴の痛みだけが時間の流れをゆっくりと妨げる。

解散。池袋で乗り換えだったので降りて楽器屋を冷やかしに行くのだが、池袋の街はまるでいつものGWのように人でごった返している。東京都はN501Y変異株の危険性をトラックで訴えているが、街宣トラックのゆっくりと気の抜けたナレーションでありどこか緊迫感が無い。二週間後どうなってしまうのか。

帰宅。スーツと革靴の痛みから解放されて虚脱。だらりとする。

昼間なら怒られないだろうと、オーバードライブをかけたギターを鳴らして気晴らしをする。低音を遮断できる床材か、安価なアッテネーターがあればいいのに。

夕方カスタマーサポート。わりと虚脱感。

家に帰ってきてから少しだけ祖母が亡くなったのか、という実感が湧いてくる。だが本当に?葬式というのは残された人々が心の整理をつけるために存在するのだということを葬式抜きの今感じる。なんとも言えない。

 

 どうも90年代辺りからあるNYのアンサンブル重視なジャズというものが自分の中でピンと来ない。ジョシュア・レッドマンは好きな盤もある。ブライアン・ブレイドフェローシップは流石に凄みを感じた。ブラッド・メルドーが凄いのはわかるのだが好みかというとよくわからない。クリスチャン・マクブライドの技術がずば抜けているのは認めるのだが、音楽的に好きかどうかはわからない。「Live At Tonic」を買って聴いたのは15年も前らしい。徐々にマクブライドのことがどうでもよくなってしまった。

NYの星再集結アルバムであるが、やはりピンと来ない。ジャズはメンバー同士の殺し合いの音楽でないと面白くないという古いタイプの価値観が刷り込まれてしまったのだろうか。それが本当に古いタイプの価値観だとは認めたくない。