五月十二日、晴れ。
新幹線に乗って山形へ。
慈恩寺に快慶の仏像がゴロゴロあってあまりの宝物庫ぶりに笑う。
パスタを頂いたりうなぎを食べたりする。
五月十一日、晴れ。
10時半起床。ズレた体内時計を戻すためジョギングを行う。
膝の感触が怪しい。やはり走るのは向いていないのか。それとも靴が悪いのか。中国製激安膝サポーターをもってしても膝が怪しいのであれば控えたほうが良いのだろうか。
運動後に遅い朝食、serial experiments lain視聴挑戦。
手土産の菓子折りが必要なことに気付き、図書館返却と外出を兼ねて原付でぐるぐる回る。府中駅前は前より原付に厳しくなった気がする。自転車も厳しくなったが。
帰宅後、DDLCで狂った自律神経などで稼働時間に限界を迎えてダウン。
起きて夕食、部屋の掃除と明日の支度で一日が終了。やはり早寝早起きでコンディションを良く保っておくべきだと学ぶ。
どうもArt Farmerのリーダー作に対してピンと来るほどの馴染みがない。ゴルソン=フラーも含めてだがPrestigeやBlue Noteでないレーベルから出ていてジャケがダサい、録音がRudy Van Gelderではないなどの要素もあるのだろうか。
いわゆるアートの「暖かいトランペット」がBenny Golsonのアレンジに支えられて歌い上げる。どちらかといえばゴルソン贔屓なのでやわらかいトランペットよりものたうつテナーに耳がいってしまう。
しかしながらこのアルバムの影の鬼才はやはりBill Evansのピアノだろう。自身のトリオなどでのプレイとは異なり、基本的には没個性なプレイと見せかけて所々に尖ったソロやコンピングを聴かせる知らないBill Evansがここにいる。
五月十日、曇り。
昨日「ゲームはほどほどに」という説教をスピルバーグから受けたにも関わらず徹夜でDDLCをクリアしてしまう。
日本語化パッチが配信された二月〜三月にかけていわゆる信頼できるゲームオタクの面々が次々とやられてゆき「語りたい、けどネタバレはしたくない」という雰囲気を撒き散らしながら「Just Monika」とだけ言うようになってゆく。たかがフリーのギャルゲーで何をそんなに騒いでいるんだ?と思いつつ刺さっている知人たちの人種から無視できず気になっていたゲーム。
ネタバレしないで一言で説明すると
「もしスティーブン・キングがギャルゲーを作っていたら?」
とでもいうような作品。あらゆる面でスティーブン・キングばりのクオリティを誇ってくるので恐ろしい。これはゼルダBotWなどと名前を並べるわけだと納得。
夢中になった結果夜が明けており、寝て起きたら夕方でそのまま2周目に突入してイースターエッグ探しをして今日が終わる。オーイ。
五月九日、雨のち曇り。
10時頃起きて11時過ぎの『レディ・プレイヤー1』を観に行く。
80年代のスピルバーグが帰ってきた!というのはいいのかもしれないが「面白ければいいんだよ」というスタンスまで80年代のまま、劇中に登場する重要なファクターやかかる音楽が全て80年代の王道を突き進んでおり、ポップカルチャーではあるがサブカルチャーであることをあまり感じさせない。それは主人公(パーシヴァル/ウェイド)がストーリーの中で歩む道もまた王道である。
もしこれがいわゆるオタクを主人公にしていなければそれで良かったのかもしれないが、日陰者である主人公が冨と名誉と親友と恋人全てを手に入れたハッピーエンドの挙句観客に向かって
「現実を大事にして、ゲームはほどほどにしろ」
と説教を垂れてくるのであれば話は別だ。ネクラによるネクラのための映画かと思わせながら、これはネアカのための映画である。本当のネクラはゲームのために他のすべてを投げ打つような人種だ。主人公はとんどフェイク野郎でお説教臭い爺さんになってしまったスピルバーグ本人だ。
帰宅後飯を食ってコミティアの収穫を読んで少しボンヤリする。そのまま夕方から夜。DDLCを少し始める
五月八日、曇りのち雨。
勤労。寝不足眼精疲労で気が遠くなる。
退勤後池袋で『リズと青い鳥』を観る。
いわゆる百合なのかなと思って見に行ったのだが、いわゆる百合ではない。「羨望と絶望、そしてそれらを包み込む愛」と言うとおり二人の主人公、鎧塚みぞれと傘木希美の友情という一言では言い表し難いコンプレックス、字義通り感情の複合であり羨望などで揺れる心理描写、それらが覆る瞬間のカタルシスなどを京都アニメーションの面々が持てる限りの技術で丁寧に掘り下げ、心を抉られる。
冒頭シーケンスからキャラクターの足取りや足音のみで人物表情が表現されている。カメラの揺れ、ピントや光による空気感、実写のような撮影演出をしてきたのが京アニだが、技術を持て余して奇を衒うのではなくそれらがすべてキャラクターの表情を描き出すために注ぎ込まれている。声や顔ではない全身の感情表現のために、高解像度化した現在のアニメだからこそ可能な表現を詰め込んでいる。
今までの京アニ作品のどこかで感じていた戯画化されたケレン味はほぼなく、実写とアニメ両方が使い得る全ての手法をもって心の機微を描き出す。足音のリズム、物音一つにまで表情が込められており、生の音響の含む情報と牛尾憲輔の音楽が一体化し奥行きを生み出してゆく。エレクトロニカ的なマイクの距離を感じさせる劇伴とカメラ演出の奥行きもまたうねりを生み出す。全てを一体化したグルーヴの中に観客は呑まれていく。すごい作品を観た。
五月七日、晴れのち雨。
9時に目が覚めてバタバタする。勤労。
耐えられないほど眠いわけでもなく、読書に集中できるほど余力があるわけでもなく漫然とした時間が過ぎてゆく。ドクペの力を借りてカフェインでダメージを受けたりしなかったのでどちらかといえば良し。
帰宅してピアノを少し触る。毎日続けることが一番大事。
五月六日、晴れのち曇り。
9時か10時ぐらいに目が覚める。わりと健全な時間に寝て健全な時間に起きた。
締切ケツカッチンなGW最終日ということで腹をくくって作曲に取り組む。
センターピックアップやフロントセンターのハーフトーンでカッティングを録るという人生で初めてのギター行為。ストラトに対する理解が随分薄かったのだということだけは理解できる。
ボイシングを色々考えるのは楽しいのだが、やはり全体の編曲のイメージを浮かべるのが下手すぎる。ウワモノを乗せたらドラムの音の不安は消えたのだが。
昼過ぎには仮眠、夕方集中力が死亡する頃にはジョギングと適切な手を打ってなんとか集中力をキープすることに成功する。まぁジョギングで膝が怪しくなってきたのだが。俺の膝はそんなに弱いのか。