生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

サスティナブルは魔法の呪文でもお前の免罪符でもない

八月三十日、晴れ。

BEAMSが燃えてる。別にBEAMSがコラボしたわけではないのに。ショタコンが燃える。

オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展を観るために東京都現代美術館へ子を連れて行く。

ベビーカーを押していると現代の東京のバリアフリーがいかに後手後手か(主に駅のエレベーター)体感することになる。昔コントラバスを運びまわっていた頃に感じた感覚がそのまま帰ってきた。古き良き日本が守られ、新しい駅舎はなかなか作られないし新しい大江戸線は地下の奥深くにある。

オラファー・エリアソンの展示は子供でも楽しめる直感的なものでありながら当然大人にも刺さる。そして学者や研究室と手を組んで工学的アプローチや環境保護へ訴えかけるスタイルも斬新である。

一方で世の中が急に「サスティナブル」と呪文のように唱え始めたことには疑問を覚える。先進国のエゴなのではないか。自然とは人類を軽々と飲み込むほどの驚異であり、農耕が始まって以来の人類史は自然破壊によって征服し、自然に打ち勝つことではなかったのか。自然破壊の速度を緩めることで人類の生存への道を確保するという意味でなら理解できる。エリアソンにその気があるのかどうかは知らないが、自然を保護し自然を崇拝することが目的の核にあるとしたらそれは疑問だ。人類は傲慢であったし、これからも傲慢である。そして些細な自然の変化に殺される。なんだか神を信じるかどうかというような話になってきた。

せっかくなので深川めしを食ってゆくが、店全体がトイレのアンモニア臭に支配されていてよろしくなかった。味は悪くなかったのだが。もう深川でアサリは獲れない。アサリの獲れない深川でアサリの炊き込みご飯を食べることにどれほどの価値があるのだろうか。印旛沼でウナギが獲れないのに成田山でウナギを食べた時と同じ気持ちだ。文化とは何だろうか。観光地化し形骸化した名物は本当に文化なのだろうか。深川めしを食べながら余計なことばかり考えていた。

帰宅、子連れだったことや夏の日差しもあいまって体力が尽きて気絶。

一瞬ギターを触り、だんだんコードフォームがわかってきたがジャズをやろうと思ったらルート抜きでコンピングをするわけであり、今度はガイドトーンの練習を始める必要があるのでは……?