生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

段落にスペースをつける習慣が消え、BRタグではなくPタグが一行ごとに使われる世界となった

六月二十三日、曇り。

通話の音のPCの音からカウンターストライクで相手の位置がわかるとかなんとか。

8時起床、朝カスタマーサポート。

ハチャメチャに眠くてしんどい。

なかなか寝付けず朦朧としながら昼間に剤をやり11時半から16時までワープする。

桂花のカップ麺を主への宥めの香りとする。これ5杯食べるお金で本物の桂花食べた方が幸せになれる。

ARP 2600 FSのDC coupling部分を確認するとどうもオリジナルと違いコンデンサが入っている模様。それはそれとして理解して使いこなせるかというとまだわからなん。

Rupert Neve Designs 535がステレオになる。色んなソースをステレオでかけていきたい。パッチベイをキチンと組みたい……

夕方カスタマーサポート。

無の心で過ごす。

 

先々週あたり千葉雅也の『現代思想入門』を読み終えたのだがそれからずっと物事を断定的に言い切ることができなくなり、様々な問いに対して「その定義とは何ぞや?」と考え込んでしまう。平たく言ってしまえばわからないことが増えた。もう少し丁寧に言うと自分が「わかっている」と思っている世界が「本当はわかっていないんじゃないか?」という状態に変化した。

世界をよりやわらかく捉えることができるようになったとも言えるし、誤解とすれ違いのまま硬い世界をそのまま突き進みたかった気持ちもある。現代思想というのはそういうものなんだな。

しかしながら二項対立と脱構築デリダドゥルーズフーコーラカンと様々なアプローチがありこそすれ、乱暴に言うとプラトンイデア論イデアにいかにして肉薄するか、いかにして削り落として本来の姿に一歩でも近づいてゆくかという話を各々がしているように感じる。

その一方で読めば読むほどわからないことが増えてゆくというより大きな範囲の現象としては「無知の知」であり、プラトンどころかソクラテスまで戻っている気がする。古代ギリシャで出された問いに対してより精度を高めるための議論が続きどんどん数式が長くなってゆくかのようだ。

読み終えて何が正しいのかわからなくなり考えることが増える中で「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。」 というアウレリウスの言葉が最終的に戻ってくるのだが、そういったことを知人に話したところ「実存主義の芽生えじゃん」と返されてしまった。しかしキリスト教に立脚する実存主義にはあまりシンパシーを抱けないんだ。