生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

子と北朝鮮と三代キング

四月二十三日、雨。

10時過ぎに起きたような。Twitter断ちをしているので自分の一日の活動の時間記録が正確にわからない。とりあえずTwitterの知人たちから見放される悪夢を見て目が覚めたことだけは覚えている。重症ですね。

起きたのは12時だったかもしれない。昨晩アコースティックギターについて調べすぎた。ギルドのアコースティックギターに興味がある。ニック・ドレイクもギルド製のものを使っていたらしいじゃないか。合板製というのも邪道感があって良い。マーチンという王様がいるのならばそうでないギターは邪道であるほど魅力的だ。

朝食とも昼食ともつかない食事、ヴィタリー・マンスキー監督『太陽の下で -真実の北朝鮮-』を観る。圧倒的なカラーコントロールと構成力で美しく、どこか陰鬱な紺色に映し出される北朝鮮。渡された脚本通りに撮影するフリをしながら、回したままのカメラが演じる前の人々の素顔をも映し、そのコントラストを浮き彫りにする。北朝鮮が見せたい虚構の塊とその裏の実情、映され続ける虚構の連続。金日成を称える話に対してあくびを噛み締めながらそれを聞く少年少女達。メインとして映される少女ジンミの聡明な、しかしどこにでもいる少女としての素直な表情と戸惑いが最も象徴的である。

 

ブルース三代キングというのがどうも馴染めない。どうして馴染めないのか考えていたのだが、まずこの三人はギターにフォーカスを当てられすぎている。いや、ギターマガジンの読みすぎかもしれないが。そして彼ら(フレディはちょっと違うが)の弾くギターというのは伴奏ではなく歌の合いの手として弾かれるリードギターであり、リフのような伴奏ではない。そのギターにばかり着目すると、歌や曲という音楽としての全体像が見えなくなってゆく。聴き方を間違えてしまう。

こういった点によってマディ・ウォーターズジョン・リー・フッカーバディ・ガイなどに対する親しみやすさと異なる妙な敷居の高さを感じているのではないかということに、ようやく気付いた。ギターテクニックの教科書のような存在ではあるが、彼らの音楽そのものはギターの教科書ではない。