生きるからにはそれなりに

mochilonという人のブログ

思索のために散歩を始める

四月二十八日、曇り時々晴れ。

10時か11頃に目を覚ます。昨日はスマートフォンを見すぎた。FGOのシナリオをようやくクリア。動機が「ネタバレを踏みたくない」しかないというのはもはや続ける意味があるのだろうか?しかし終盤クライマックスだけは面白いのが悩ましい。

ソシャゲをずるずる続けながらSNS断ちはしている。深夜にPCから少しだけアクセスしているが、スマートフォンからはアプリを消して通知を切っている。まだ無意識に指がTwitterを開こうとする。

スマートフォンもミュージックプレイヤーもない状態で散歩をすることが思索として最も簡単で良い方法であると本に吹き込まれ、マイブックとシャープペンシルだけを持って近所のお山の神社まで散歩。ここ3週間ひたすら蟄居していたため、このちょっとしたハイキングが足腰に厳しく、今まで回っていなかった血液がこめかみをズキズキさせ始める。ふと思いつき、ありきたりなことを理路整然と紙に書く。物事を順序立てて書き出して整頓するという習慣が見についていないため、このありきたりな行いの大切さを知る。書いていこう。

電話を放り出して外出していたので家族から心配される。帰宅して足腰がグッと疲れる。

子を沐浴させる。慣れてきたのだが、子も子でそろそろ自我の芽生える予兆を感じさせる。体力もついて暴れたりぐずったりしそうだ。寝かしつけた後自分も気絶する。

夕食、事務、風呂。

 

ビートルズは『ラバー・ソール』から『サージェント・ペパーズ』までの中期ばかり聴いていたと思い、1stから5thを改めて聴き直している。ポールが「ハンブルク時代の俺たちはベサメ・ムーチョを演奏する硬派なバンドだったんだ(すっかり軟派なバンドになってしまったと思われたくなかった)」と言っていたが、「P.S. I Love You」だとか「Taste Of Honey」(カバーだが)を聴いているとクリフ・リチャード&ザ・シャドウズから地続きの音楽であり、スキッフルとロックンロールとカントリーがゴチャ混ぜになった(そもそもスキッフル自体がゴチャ混ぜだが)音楽をやっていたのだなという流れが理解できる。ようやく理解できた。高校生の頃の自分にはそこまではわからず、ただただ音質の悪いロックだとしか思えなかったのだ。